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【とっておきのヨーロッパだより】『メール・ブラジエ』とその時代

12<海外>とっておきのヨーロッパだより

2016.09.16

<【とっておきのヨーロッパだより】ってどんなコラム?>

フランス、リヨン1区の片隅に、ある女性料理人の名前がついた通りがあります。ウジェニー・ブラジエ Eugénie Brazier通り(注1)。この通りと交わるロワイヤル通りには、彼女が1921年に創業し、今も多くの人に愛されているレストラン『メール・ブラジエ Mère Brazier』があります。
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(左)ウジェニー・ブラジエ通りの標識
(右)『メール・ブラジエ』の看板

私がウジェニー・ブラジエの名前を知ったのは、辻調グループに入職した後、フランス料理史の入門的知識を得ようとしたときのことでした。20世紀前半から第二次世界大戦後にかけて活躍し、『ミシュランガイド』で幾度も3つ星を得るだけでなく、キュルノンスキーCurnonsky(注2)など当時の料理批評家や著名人からも称賛された女性料理人です。

フランスでは19世紀末頃から、「メール(おふくろ)」と呼ばれる女性料理人たちが、素朴ながら食材の味をしっかりと活かした料理を出して人気を博していました。現在まで名前が伝えられている料理人としては、リヨンのメール・ギーGuyやメール・フィルーFilloux、アン県プリエPriay村のメール・ブルジョワ Bourgeois、そして同県ヴォナス Vonnas村のメール・ブラン Blancらが挙げられます。彼女たちの店や料理は、当時の大ホテルやパリの高級レストランのように華美ではなかったようですが、『ミシュランガイド』やキュルノンスキーは地方やブルジョワ家庭の伝統が感じられると積極的に評価しました。今日、ウジェニー・ブラジエはこうした女性料理人たちの代表的な存在とも言われています。

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ウジェニー・ブラジエ(1895-1977)※

ウジェニー・ブラジエが生きた頃のフランスでは、現代とは違って女性の権利が制限されていました(注3)。ブラジエについての評価の一端を知るうちに、そうした時代に料理人として成功した彼女の人生について、もっと詳しく調べてみたいと思うようになりました。

ウジェニー・ブラジエが生まれ育ったアン県や、リヨンがあるローヌ県には、辻調グループ フランス校が所在します。ここでは、ウジェニー・ブラジエにゆかりのある場所を訪ねながら、彼女の生涯と『メール・ブラジエ』の歴史を辿ってみましょう。

1895年6月12日、ウジェニー・ブラジエはアン県の小さな村、ラ・トランクリエール La Tranclièreで生まれます。

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ラ・トランクリエール村の標識

ウジェニーの母クロディーヌ Claudine と父ピエール Pierre は、アン県のドンピエール=スュル=ヴェイル Dompierre-sur-Veyleという村で小さな農場を営んでいました。ウジェニーが生まれた日、この両親はアン県の現県庁所在地ブル=カン=ブレスBourg-en-Bresseの市場で農産物を売っていたそうです。

ウジェニーが5歳のとき、父は家計を支えるために他の村にある大農場へ移り住みます。この頃からウジェニーは両親の農場を手伝い、豚の世話などをしていたといいます。父がいない間は母が農場を仕切り、幼いウジェニーをしつけていましたが、この母もウジェニーが10歳のときに亡くなります。父と離れ、母を亡くしたウジェニーは、公的保護を受けて他の農場に預けられます。

ウジェニー・ブラジエの幼少期は恵まれたものではありませんでした。貧しい農家に生まれ、幼い頃に両親と離れ、農場の仕事に追われて十分に学業を受けることができなかったからです。しかしやがて彼女は料理に喜びを見出すようになります。送られた農場の台所で、使用人がまかない料理を作るのを熱心に眺め、自分でもワッフルやゴード Gaudeという焼きとうもろこしの粉で作った粥を作っていたそうです。

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(右)2011年春、ドンピエール=スュル=ヴェイルの村役場近くにウジェニー・ブラジエ広場ができた


1914年、19歳のウジェニー・ブラジエに転機が訪れます。未婚のまま妊娠し、同年10月16日に息子ガストンGastonが生まれます。当時のフランスでは、未婚の母は社会的、道徳的に望ましくないものと見なされていたようです。彼女は息子を乳母に預け、地元を離れてリヨンのミリア Milliat家に召使いとして雇われます。

ミリア家は麺類の生産で財を成した一族で、リヨンのベルトロ大通りに大きな工場を所有していました。一族にはすでに料理係がついていましたが、夏にカンヌで保養した際などはウジェニー・ブラジエが料理を担当することもあったそうです。第一次世界大戦の最中でしたが、トリュフなどの高級品や良質の素材を存分に使った経験は、料理人としての彼女に多くの発見をもたらしたに違いありません。

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(右)リヨンのベルトロ大通り

ミリア家に入ってから数年後、彼女は息子と共に独立して生計を立てるため、当時リヨンで評判を呼んでいたレストラン『メール・フィルーMère Filloux』に移ります。

『メール・フィルー』の創業者フランソワーズ・フィルーFrançoise Filloux(旧姓ファイヨールFayolle)は1865年生まれ。オーヴェルニュ地方、ピュイ=ド=ドーム Puy-de-Dômes県の小さな村オゼル Auzelles出身で、いくつかのブルジョワ家庭へ召使いとして入った後にリヨンへ渡り、保険会社の経営者で食通でもあったガストン・エイマール Gaston Eymardのもとに仕えます。ここでしばらく料理を学んでから、夫ルイ・フィルー Louis Fillouxの父がデュケーヌ通りに持っていた建物の一階にレストランを開きます。開業当初は借金の返済に追われたものの、質の高い食材を絶妙に調理したシンプルな料理の評判が広まり、地元の経営者たちをはじめとして多くのお客が通いつめるようになります。

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(右)『メール・フィルー』があったデュケーヌ通り

フィルーは厳しい人物だったようですが、ブラジエの料理の才を認め、他の部下には任せなかった仕込み作業の一部を彼女にだけは譲っていたと言われています。ブラジエはこの時期、『メール・フィルー』で人気を博し、後に『メール・ブラジエ』の名物料理となる「肥育鶏のドゥミ=ドゥイユ風(注4)」や「アーティチョークの芯、フォワ・グラ風(注5)」といった料理の勘所を掴みます。その後、彼女がレピュブリック通りのレストラン『ブラッスリー・デュ・ドラゴン Brasserie du Dragon』へ移ってからは、「『メール・フィルー』の2号店ができた」と噂する人々が現れたといいます。

『メール・ブラジエ』がリヨンのロワイヤル通りで営業を始めたのは1921年4月、ウジェニー・ブラジエ26歳の時でした。馴染みの製菓店から聞きつけて購入したという物件は、元はバー兼食料品店だった場所で、オープン当初の席数は15席ほどだったようです。しばらくは資金繰りも苦しく、グラスやナプキン、椅子などの内装品を借りたり、徐々に買い足したりしなければなりませんでした。物質的には順風満帆の出だしではありませんでしたが、ついに自分の店を持った彼女は猛烈に働き、医師をはじめ地元のお客たちからの高い評判を得ていきます。

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現在の『メール・ブラジエ』とロワイヤル通り

『メール・ブラジエ』の評判は次第に広まっていきます。当時活躍した料理批評家キュルノンスキーは、1925年の著書『ラ・フランス・ガストロノミック La France Gastronomique(美食のフランス)』の中で『メール・ブラジエ』の料理を高く評価し、「リヨンの美食の中でもトップクラスの地位を得た―中略―この小さくも偉大な店には必ず行くように」と書いています(注6)。また、車用オイルの会社スピドレインヌ Spidolëineの幹部たちもこのレストランの料理をいたく気に入っていたそうで、パリにウジェニー・ブラジエを料理人として招き、200人規模の大宴会を催したというエピソードが伝えられています。

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スピドレインヌ社による『メール・ブラジエ』宣伝用ポスター※


さらに、当時のリヨン市長で、生涯のうち首相を含めて大臣職や議長職を歴任した左派の政治家エドゥアール・エリオEdouard Herriot(注7)も、1957年3月に亡くなるまでブラジエの料理を愛し続けていたと言われています。

この頃ウジェニー・ブラジエは一時的に体調を崩し、医師から療養を勧められます。そこで彼女は、リヨンから約20km離れたコル・ド・ラ・リュエール Col de la Luère(リュエール峠)にある木造の小屋を買い取ります。標高700メートルほどの小高い峠で街の喧騒から離れるのが目的でしたが、次第に『メール・ブラジエ』の常連客が食材を持ち込み、料理を作ってほしいと彼女に頼み込むようになったといいます。大事なお客には最高の料理を振る舞いたいと考えたのでしょう、彼女はリュエール峠の小屋をレストランへと少しずつ改装し、1932年には『ミシュランガイド』でロワイヤル通りの店と共に2つ星を得るまでになりました。

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(左)リュエール峠の標識。「標高714m」とある
(右)リュエール峠からの眺め

1933年、『ミシュランガイド』はフランス全土のレストランを3つ星までの基準で評価し始めます。この年、『メール・ブラジエ』はロワイヤル通りとリュエール峠の2店で3つ星を得ます。その後、この2店は1938年まで3つ星を維持します。2016年現在までで、2つの店舗で3つ星を得るという快挙を成し遂げた女性料理人はウジェニー・ブラジエだけです。

1930年代はじめごろ、息子ガストンが中等教育を修了し、『メール・ブラジエ』を手伝うようになります。第二次世界大戦に伴う徴兵を終えた後、1941年5月にカルメンCarmenと結婚し、1942年には長女アンヌ=マリーAnne-Marieが、1943年には後に『メール・ブラジエ』の運営を担う次女ジャクリーヌJacquelineが生まれます。ウジェニー・ブラジエは次第にリュエール峠の店に力を注ぐようになり、ロワイヤル通りの店をガストンに任せていきます。ガストンが取り仕切ったロワイヤル通りの店は、1948年から1972年まで『ミシュランガイド』で2つ星を維持し続けました。

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ガストン・ブラジエ(1914-1974)※

第二次世界大戦後の1946年5月、ウジェニー・ブラジエはリュエール峠の店の営業を再開します。この頃、若き日のポール・ボキューズ Paul Bocuse氏がリュエール峠の店で働き始めます。『メール・ブラジエ』の門を叩くため、リュエール峠まで自転車でやってきたというボキューズ氏は、後にこの時期を振り返って次のように言っています。
「シンプルな料理(簡単な、という意味ではない)を好むという私の気質は、この女性と接することではっきりした。節約のセンスや食材選びへのこだわりが身に付いたのも彼女のおかげだ」(注8)

食糧制限から解放された常連客がリュエール峠の店に駆けつけ、1951年には『ミシュランガイド』が再び3つ星を与えました。この時期、ニューヨークの高級ホテル『ウォルドルフ=アストリアWaldorf Astoria』が、年俸15万ドルの条件でレストランの指揮を執るようウジェニー・ブラジエに願い出たという逸話がありますが、彼女はあくまでリヨンに留まりました。リュエール峠の店は1960年まで3つ星を守った後、一時星を失いますが、1963年には3つ星を取り戻し、1967年まで維持しました。

充実した晩年を送っていたかに見えたウジェニー・ブラジエですが、1974年3月3日、息子ガストンが心筋梗塞で世を去ります。ガストンを失った悲しみに打たれた彼女は、リュエール峠の店を売りに出して隠居生活を送ります。そして1977年3月4日、彼女も癌で亡くなります。ウジェニー・ブラジエの遺体はガストンと同じく、アン県のマ=リリエ Mas-Rillierの墓に葬られました。

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ウジェニー・ブラジエとガストンが眠る墓

ウジェニー・ブラジエの死後は、ガストンの次女ジャクリーヌが店の経営を担い、ロワイヤル通りの『メール・ブラジエ』の看板を守りました。多くの人からジャコット Jacotteの名で親しまれる彼女は現在、ウジェニー・ブラジエを慕う料理人たちによる協会「レ・ザミ・ドゥジェニー・ブラジエ Les Amis d'Eugénie Brazier」の会長を務めています。また、2007年には「ル・プリ・ウジェニー・ブラジエ Le Prix Eugénie Brazier(ウジェニー・ブラジエ賞)」を創設、年に一度、女性が書いた料理本の中から優れたものを4冊選出し表彰しています。

現在、『メール・ブラジエ』のオーナーシェフを務めているのはマチュー・ヴィアネ Mathieu Viannay氏です。1967年にヴェルサイユで生まれたヴィアネ氏は、調理師学校を卒業してしばらくパリのレストランで働いた後、1994年にリヨン・パール=デュー駅の飲食部門で料理長を務めます。リヨンの街並みに魅了されたというヴィアネ氏はそこに留まり続け、2004年に料理人部門で M.O.F.(フランス国家最優秀職人章)を受章、2005年にはリヨン6区に開業した店で1つ星を得ます。『メール・ブラジエ』のオーナーシェフに就任したのは2008年で、その翌年に発行された『ミシュランガイド フランス』2009年版では2つ星を獲得します。「肥育鶏のドゥミ=ドゥイユ風」や「アーティチョークの芯、フォワ・グラ風」といった『メール・ブラジエ』の名物料理を現代風に洗練させる手腕には目を見張るものがあり、2016年現在も2つ星を維持し続けています。

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(左)『メール・ブラジエ』入口
(右)ヴィアネ氏による「アーティチョークの芯、フォワ・グラ風」の最新版


先日、現在の様子を知るために『メール・ブラジエ』で食事をしました。レストランの建物は昔からの構造を残しつつ、内装はデザイナーのヴァヴロ夫妻(注9)によって美しく整えられています。客室では、2015年にソムリエ部門で M.O.F.を受章したドゥニ・ヴェルノーDenis Verneau氏が、丁寧かつ的確にワインをサーヴィスしていました。私はメニューの中から、「アーティチョークとフォワ・グラ、ナンバー10」と、トリュフの旬ではない時期に「肥育鶏のドゥミ=ドゥイユ風」に代わって出される「若鶏のエクルヴィス(ざりがに)風」を選びました。

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「若鶏のエクルヴィス風」のサーヴィス。火が通ったばかりの鶏を鍋ごと見せる

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サーヴィス係が目の前で鶏を切り分ける。料理は二回に分かれて提供される

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まず、ソース・ナンテュア(エクルヴィスのソース)がたっぷりかかった胸肉が出る

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続いて、もも肉のグリエとエクルヴィスの身を組み合わせた料理

まずセンスの良い盛り付けに目が行きますが、どちらも質の高い食材の風味が最大限に引き出されており、量もしっかりしていて、ウジェニー・ブラジエの精神が受け継がれていると感じさせる料理でした。

ウジェニー・ブラジエがロワイヤル通りに店を出してから95年余りになりますが、この間、多くの人が『メール・ブラジエ』の料理を愛し、敬意を表してきたことがわかります。今も昔も、たくさんのお客たちが彼女の出自や店構えに囚われず、このレストランの「料理そのもの」を評価し続けています。そして『メール・ブラジエ』の従業員や、ブラジエと共に働いた料理人たちが、彼女の仕事や精神を後世に継承していこうとしています。ウジェニー・ブラジエの生涯と『メール・ブラジエ』の歴史からは、美食の伝統を守り、育もうとするフランス人たちの、絶えざる実践の一端を知ることができました。

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(参考文献)
ウジェニー・ブラジエと「メール・ブラジエ」については、主にジャン=フランソワ・メスプレッド Jean-François Mesplède氏による伝記『Eugénie Brazier, un héritage gourmand』(Page d'Ecriture)のほか、以下の出版物を参考にしました。
 『Les Secrets de la Mère Brazier』(Roger Moreau著、Edition SOLAR)
 『Le Grand Dictionnaire des Cuisiniers』(Jean-François Mesplède著、Page d'Ecriture)
 『12 Rue Royale ou les sept défis gourmands』(Hervé Richezほか著、Grand Angle)
(本文中※印のついた写真について)
レストラン『メール・ブラジエ』から使用許可を得て使用しています。



(注1)以前はフランスの軍人フランソワ・セヴラン・マルソーFrançois Severin Marceau(1769-1796)にちなんだ「マルソー通り」だったが、2000年11月25日よりウジェニー・ブラジエ通りになった。

(注2)本名モーリス・エドモン・サイヤン Maurice Edmond Saillant(1872-1956)。20世紀前半に活躍したフランスの料理批評家。著書に『La France Gastronomique』、『Le Trésor Gastronomique de France』などがある。

(注3)フランスで女性参政権が認められたのは1944年のこと。また1965年まで、既婚女性は銀行口座の開設や労働契約書への署名に夫の同意が求められていた。なお、避妊の合法化は1967年、妊娠中絶の合法化は1975年のことだった。(参考:『変貌するフランス 個人・社会・国家』(西永良成著、日本放送出版協会))

(注4)トリュフの薄切りを肥育鶏の皮と身の間に差し込み、ゆで煮した料理。リヨネ地方に伝わる。ドゥミ=ドゥイユdemi-deuilは「半喪服」という意味。白と黒の材料を組み合わせた料理を指し、この場合は、鶏とトリュフが白と黒の対比をなす。(参考:『新ラルース料理大事典』(同朋舎))

(注5)ゆでたアーティチョークの芯とフォワ・グラの薄切りを、季節の野菜と共に提供する料理。

(注6)"Ne manquez pas d'aller dans cette grande maison qui, [...] conquiert rapidement une place de premier rang dans la gastronomie lyonnaise." (『Eugénie Brazier, un héritage gourmand』p.20より引用)

(注7)1872年生まれ。1905年から1957年に亡くなるまで、ナチス・ドイツによる占領期を除いてリヨン市長を務め続けた。1912年には上院議員に選出され、その後急進社会党党首となり、左派連合政権の首相に任命される。1940年からのヴィシー政権下ではユダヤ系のため逮捕され、ドイツの強制収容所に送られるが、45年に釈放。その後下院議長も務める。1957年3月、リヨンで没する。政治家になる前は高校で古典文学を教えていて、著書も多数あり、文才が認められてアカデミー・フランセーズの会員にもなった。

(注8)"[...] c'est certainement au contact de cette femme que mon inclination naturelle pour la cuisine simple - ce qui ne veut pas dire facile - se fit jour. Je lui dois le sens de l'économie, l'exigence dans le choix des produits."(『Les Secrets de la Mère Brazier』p.7 ポール・ボキューズ氏の序文より引用)

(注9)アラン・ヴァヴロ Alain Vavro氏と妻のドミニク Dominique氏は、リヨンを拠点に活動するデザイナー。ポール・ボキューズ氏のレストランや、ジョルジュ・デュブッフ Georges Dubœuf社のワインのラベルなど数々のデザインを手掛ける。