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連載コラム 和のおいしいことば玉手箱
日本には、昔から言い伝えられてきた「おばあちゃんの知恵袋」のような、食に関する言葉がたくさんあります。これらの言葉は、科学的にもきちんとした根拠があり、道理にかなっているということがほとんどです。ここでは、これらの食に関すること わざや格言などからおいしさを再発見してみます。
桃栗三年、柿八年
桃栗三年、柿八年 桃栗三年、柿八年
解説

「桃栗三年柿八年」
桃と栗は芽生えてから三年、柿は八年で実を結ぶという意味。その時期がこないと実を得られないということ。この下に「柚(ゆず)は九年の花盛り」「枇杷(びわ)は九年でなりかねる」「梅は酸い酸い十三年」などの句をつけてもいわれる。
 「桃栗三年柿八年」このことわざを耳にすると、なぜか私は幼い頃に聞いた「むかし、むかし、あるところに…」で始まる、日本むかし話の『桃太郎』と『さるかに合戦』を思い浮かべてしまう。

(一)栗、柿といえば……さるかに合戦

 栗は縄文時代の遺跡からも発見されるほど、食用の歴史が古い。特に、京都の丹波地方は名産地で、冬と夏、昼と夜の寒暖の気温較差が大きい盆地特有の気象条件と、栗の生育に適した土壌で、良質の栗が育つ。日本料理の献立で、主材料の魚介類などの上に栗や季節の野菜をのせて蒸した料理を「丹波蒸し」と名付けることからも、丹波地方がいかに栗の栽培に適し、良質の栗がとれる土地であったかということが理解できる。

 昔、いくさの出陣式では、「のし鮑、かち栗、昆布」が必ず添えられ、「敵をのして、かち、よろこぶ」と祈った。このかち栗は、干した栗を臼でついて、鬼皮と渋皮を取ったもので、米のとぎ汁でゆでて戻し、砂糖としょうゆで煮て用いられる。

 フランスでは、冬になると街角で、焼き栗が新聞紙に包んで売られている。本校のフランス校の職員のひとりが、ちょうどこの風景が、日本で焼き芋屋さんが軽トラックの後ろにかまどをのせて、ピーという音を立てながらゆっくり走っていく風景と重なり、思わず駆け寄って買ったそうだ。そして、食べてみたら日本の栗のような甘さはなく想像していた味とは違っていたが、しかしその温かさがご馳走だったと、懐かしがっていた。日本の焼き芋のように、フランスでは冬の風物詩になっているようである。

 街角のおやつといえば、我々が子供の頃には、「ポン菓子」というものがあった。ポン菓子屋は、リヤカーに大砲のような機械を積んで、時々、街角に止まって店開きをしていた。そこに、近所の子供が生米を持って行って渡すと、ポン菓子屋のおじさんは米をその機械につめ込み、石油バーナーで温めながら、数分間ぐるぐる回し、大きなざるを取り付ける。子供はわくわくして、その工程をじっと見ている。そして、レバーを引くと、それこそ大砲のような轟音とともに、プクッと膨らんだサクサクの米菓子がざるの中めがけて飛び出すのである。最近、そのポン菓子を彷彿させるような「焼きポン栗」を高速道路のサービスエリアで見かけた。鬼皮がはじけて、中から栗の実が顔をのぞかせており、甘く温かくて、ホクホクした食感がなんとも新しい感覚だった。

 さて、柿に話を移そう。『さるかに合戦』でさるが食べていたのは甘柿だが、熟しても渋みが強い渋柿もある。実は、甘柿も熟す前は渋味があるのだ。渋味の原因はシブオールというタンニン成分で、熟すと自然に渋味が取れるのが甘柿、なかなか渋味が取れないのが渋柿と分けられているのである。『万葉集』や『源氏物語』にも柿は出てくるが、その時代の柿は渋柿のみだったようだ。

 では、渋柿は食べられないのかといえばそうではなく、渋柿を甘くする方法を先人はいろいろ工夫してきた。家庭で渋抜きをするなら、渋柿5個に対してりんごを1個準備し、ビニール袋に小さな穴を数カ所あけて、柿とりんごを入れて口を閉じておく。すると、りんごから出るエチレンの作用によって、1週間ほどで渋味が抜けるのである。また、渋柿をビニール袋に入れ、ヘタの部分を中心に焼酎をふりかけて密閉し、15℃以上の部屋で4〜5日おいても同様に渋味が抜けてくれるのである。

 また、柿の渋は食べられないが、防水効果があるので、昔から雨傘や雨がっぱに用いられたり、草木染めの染料としても使われている。これらはまさに、生活の知恵である。

 栗と柿といえば『さるかに合戦』の脇を固める名役だが、このコラムを書くにあたり、色々な絵本を読んでみると、さるをこらしめる助っ人役が栗、蜂、臼以外に、その絵本によって異なっているではないか!これには驚かされた。畳用の刺し針、菜切り包丁、牛の糞、稲を刈って干す時に使うはぜ棒などが助っ人として登場するのである。それだけでなく、『桃太郎』の話のように、きび団子をもらって助っ人をかってでたりする本もある。かにの職業もわらを束にして売り歩いたり、浜辺で大きな釜で海水を煮詰めて塩を作っていたりと、様々であることも発見だった。

(二)桃といえば……桃太郎伝説

 古代中国で、桃は「邪気をはらい、百鬼を制す。」といって長寿の効目があると考えられており、「長寿の実」や「仙果」と呼ばれていた。日本には遣唐使によって伝えられ、邪気をはらうとして、節分の追儺(ついな)の行事に使われたり、ひな祭りのシンボルとして飾られる。

園山春二先生に描いていただいた似顔絵 先日、桃太郎を求め、愛娘とともに、岡山まで約200km、愛車を走らせた。目指すは、本校の通信教育の卒業生が館長をされている「桃たろう美術館」。画家の園山春二先生のお声がけで、平成13年に岡山市にオープンされた美術館である。訪問当日、たまたま園山先生が在館され、桃太郎にまつわる話をいろいろとうかがうことができた。

 道すがら、小学生の娘に「桃太郎の家来は?」と尋ねたところ、「犬、きじ、きつね」という予想もつかない答えが返ってきた。今まで疑問に思わなかったが、家来はなぜ「犬、さる、きじ」なのだろうか。これは、桃太郎のモデルとなった吉備津彦の家来、犬養部(いぬかいべ)、猿養部(さるかいべ)、鳥養部(とりかいべ)をもじったもので、犬、さる、きじはそれぞれ、犬=人情、さる=知恵、きじ=勇気の象徴と聞いて納得した。
 さらに興味深いことに、方位学では、北を子(ねずみ)として、右回りで干支と方向を組み合わせている。鬼は鬼門とされる北東の方向(丑寅)に住んでいて、牛のような角を生やし、虎の形相で、牛と虎を合体させたような架空の生き物とされている。そして、鬼とほぼ反対の方向である西南西、西、西北西の方向に位置するのが申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)で、そのためさる、きじ、犬を家来として連れて行ったともいわれる。



 「おこわ」は、本来「強飯(こわいい)」といい、古くは主にもち米をこし器やせいろで蒸したものを指した。その頃は飯といえば強飯のことで、今我々が食べるやわらかいうるち米のご飯は「姫飯(ひめいい)」といって区別した。姫飯のほうが普及して日常食べられるようになってからは、強飯は祝い事や特別な日に作られることが多くなった。

 今回は、家庭でもおこわを手軽に作れるように、蒸さずに炊飯器で作る方法を考えた。本来の蒸して作る方法は、だし汁に調味料で味つけした調味だしにもち米を半日浸し、もち米を引き上げて他の具材とともに蒸し器で蒸し、途中で調味だしを数回手でまんべんなくふりかけて作られる。


ちょっと豆知識
「桃太郎のルーツ」
「桃たろう美術館」所蔵 園山春二先生が描く桃太郎 「桃太郎」のモデルは、4、5世紀頃、大和朝廷から派遣された吉備津彦といわれている。「鬼」とされているのは温羅(うら)という百済の王子で、吉備の新山に城を構えた。この「鬼が城」といわれる城は、昭和53年に発掘調査され、2kmに及ぶ石塁と土塁、水門を持つ朝鮮式山城として現在注目されている。
 吉備津彦と温羅の合戦は、温羅が投げる石と、吉備津彦の射る矢が、何度も当たっては落ちながら一進一退をくり返し、勝負がなかなかつかなかった。そこで、吉備津彦は一計を案じ、1度に2本の矢を射ることにした。すると、1本は温羅の投げる石に当たって落ちたが、残る1本が、見事に温羅に命中した。温羅は川を血で真っ赤に染めながら、鯉(こい)に化けて逃げる。それを吉備津彦は鵜(う)になって追いかける。とうとう、吉備津彦が喰いあげて退治した。これらの史跡である「矢喰い岩」、「鯉喰神社」、「血吸川」が今も残っている。
 温羅の首は長い間さらされていたが、いつまでもうなり声をあげ続けており、やがて、その首は吉備津神社の土中深くに埋められた。そしてある夜、温羅が吉備津彦の夢枕に立ち、生きているときの悪業の償いとして、「今後は釜をうならせて、世の吉兆を告げよう。」と言い、それからというもの、吉備津神社の鳴釜神事が始まったらしい。

「桃たろう美術館」所蔵 園山春二先生が描く桃太郎 ただ、園山春二先生の話によると、鬼が城の温羅は、我々がイメージするような鬼ではないようである。彼と彼が率いていた人々は、百済から製鉄技術を日本に持ち込んだ、当時としては最新の武器・文明を持った帰化人の集団であった。その当時の大和朝廷には製銅技術しかなく、この製鉄技術を奪い取るために戦い、それを大和朝廷が美化してこのような話を広めたのであろう。
 なるほど、製鉄をする時は、鉄を溶かすために高温の火をおこす。そばにいる人々は熱いので、裸同然の姿で仕事をする。この高温の火の照り返しが人々の裸の体に当たり、赤鬼のように見えたのは、納得のいく話である。

 そこで、むかし話の『桃太郎』に話を移そう。民族学者である柳田国男の著書『桃太郎の誕生』によると「昔、大和の国が洪水の時に、初瀬川(現在の大和川の上流)が氾濫し、大きな甕(かめ)が三輪大社の社殿の前に流れ着いた。中を見ると玉のような男の赤ちゃんがいた。この赤ちゃんが大きくなって、吉備津彦になった。」そうである。
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レシピ 栗入りおこわ

タイ語の話せる日カレのおとうちゃん
人物 小谷 良孝
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