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【百人一首と和菓子】松の橋立て
2015年11月06日

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<【百人一首と和菓子】ってどんなコラム?>



お菓子について
冬の天の橋立をイメージして、お菓子を作成しました。
冷たい海白い味甚羹と薄く水色に染めた味甚羹の張り合せで表現し、
海に浮かぶように繋がる松林として、抹茶の浮島生地を使いました。
氷餅をかけて、雪が舞い、降り積もる様子を表わしています。


豆辞典
60 小式部内侍(こしきぶのないし)
 平安時代の歌人です。万寿2(西暦1025)年11月に28歳前後で亡くなったようです。母親は56番の歌の作者、和泉式部で、父親は橘道貞(たちばなのみちさだ)という人です。寛弘6(西暦1009)年ごろ、母親と一緒に、藤原彰子(ふじわらのしょうし)のところに出仕します。魅力的な女性で才女でもあったようで、何人かの貴公子と恋に落ち、子どもも数人生んでいます。

さて、歌の方は

大江山(山城と丹波の国境)を越え、生野を通って行く道は遠いので、まだ(母のいる国の景勝地である)天の橋立の地は踏んでいませんし、母の文も見ていません。

というくらいの意味です。

 生野(いくの)という地名と「行く」をかけ、「ふみもみず」は、踏んで(行って)みたこともないという意味と、文(ふみ=手紙)も見ていないという意味がかけてあります。
 この歌には、次のようなエピソードが残っています。母親の和泉式部が、再婚した夫の赴任地である丹後の国に行っているとき、小式部内侍は歌合せ(2つのグループに分かれて和歌を出し合って優劣を競う遊び)に出ることになりました。親しかった藤原定頼(64番の歌の作者)が、「丹後の国のお母さまのところへ、和歌を代作してもらうために使いを出しましたか?使いが戻ってこないなら、心配でしょうね」というようなことを言ってからかったので、定頼の袖を捕らえて、その場ですぐに小式部内侍が作ったのがこの歌です。定頼は、何も言い返せなかったとされています。
 このとき、小式部内侍はまだ10代半ばだったという説があります。技巧を凝らした和歌を即興で作ることができたのは、母親譲りの和歌の才能があったからですが、長く生きていたら、どんな歌人になっていたでしょう。

このコラムの担当者

和菓子班の看板娘
加納みどり

辻調の御言持(みことも)ち
重松麻希

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松の橋立て

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