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代表 辻芳樹 WEBマガジン

辻調塾in代官山蔦屋書店:第5回トークイベント「今だから、辻静雄の話をしよう!《フランス料理を築いた人々》」

講演・シンポジウム・イベント

2014.03.10

第5回となった辻調塾in代官山蔦屋書店。

12月2日の『辻静雄ライブラリー』復刊記念トークイベント「今だから、辻静雄の話をしよう」は、

毎日新聞社編集委員の西川恵氏をお迎えしました。

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西川さんは、毎日新聞社 外信部専門編集委員でもあり、フランス特派員を経て、「エリゼ宮の食卓」などの著者でも知られる外交・国際政治に長けたジャーナリストです。今回復刊した辻静雄の「フランス料理を築いた人々」では、解説をお願いしました。

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辻静雄の著書を読み、西川さんが感じたこと、

そして今回のトークイベントのテーマともなったのは

「辻静雄は、ジャーナリストだった」ということでした。

辻静雄のまた違った一面を知ることができた貴重な機会となりました。

もちろん、辻静雄が元ジャーナリストであることに、間違いはありません。

ただ、教育者、フランス料理研究者としての辻静雄の中にも、ジャーナリストの側面を、その著書を読むにつけ感じたそうです。

それは、辻静雄が読売新聞大阪支社社会部という極めて、個性の強い部署で、ジャーナリストとして働いたこと、また彼が持っていた大局的、相対化してみるものの見方に起因するのではないかということでした。

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西川さん曰く

「まず、ジャーナリストというのは、何か目標を設定したとき、まず、ポイントになる人間にアタックをかけて、そこから人脈をひろげていきます」

西川さんの場合は、エリゼ宮を取材した際に、まず手紙を出し、執事長を突破口に人間関係が回っていきました。そして、ソムリエ、フラワーアレンジメントを担当する人、食器を担当する人など、エリゼ宮の中の毛細血管をずっと辿るように取材ができたそうです。

唯一、できなかったのはカーブだったとか(笑)。あとは、厨房から全部、エリゼ宮に出入りするAP通信の大統領担当記者にも、フランス料理研究家にも話を聞き、同心円状に広げていって、エリゼ宮の食卓というものが、どういうものかがわかりました。

辻静雄の場合でいえば、

東京~大阪間の飛行機でたまたま乗り合わせたアメリカ人に、自分は料理の勉強、研究をしたいんだ。という話をしたところ、その人は、アメリカに帰ってから、「これを読め」と、一冊の本『The Art of Eating』を送ってくれました。それが、カリフォルニア大学のフィッシャー女史です。それから、フィッシャー女史に手紙を書き、そして会うことになり、義理のお父さんに大金を借りて、アメリカに飛ぶわけです。そこから世界が広がっていきます。

ジャーナリストは、あるはしごをかけて、そこをおさえる。それは誰でもいいわけではなく、いいポイントをおさえるかどうかで、その後が決定的にかわる。そこからパーッと人脈が広がっていく。おさえた人によっては、もう一回戻らないといけなくなって、時間がかかってしまう。

ポイントをつかみ、そしてフランスに渡り、マダムポワンと懇意になり、ボキューズ氏などを紹介されていく。そういうところをみていると、辻静雄の嗅覚はかなりあった。一つつかむと、次の人脈を辿って行く、そしてこの人を紹介してあげようと思わせるものを辻静雄は確かに、持っていた。そうでなければ、専門料理の人脈を気安く外国人に紹介したりしませんし、辻静雄が生来持っていたもの、また記者時代の3年間で培ったもの、鍛えられたもの、さまざまな要素が絡み合いながら、人づてに世界を拓いていくのは、まさにジャーナリストのようだ。と西川さんは、評します。

さらに、美味礼賛の中にあるように、フランス料理に対して手探り状態の悶々とする時期があった辻静雄にとっては、フィッシャー女史やチェンバレインという人を通して、フランス料理に入っていったのは、きわめて幸いなことだった。とも言います。

西川さんがそう考える背景には、それはフランス人のものごとの捉え方があります。ある限定なシーンにおいて、「これはこうなんだ」というものが多いフランス人。前提がない外国人にとっては、「どうしてそれはそうなの?」となってしまいます。それに対して、アングロサクソンの人は、そういうフランスの文化に対してうまく橋をかけてくれる。辻静雄が、アメリカ経由で、フランス料理を知ったということは、まず、この人々がいろんな本を紹介してくれます。またフランス料理の基本的な骨格や歴史を学ぶべく、アメリカ人に案内されフランスにいって実体験としてフランス料理を食べている。理論という骨格と、実際の現場とを一回目の旅で、彼らが融合させてくれました。だからこそ辻静雄にとっては、フランス料理研究の入口をみつけたというある種の喜びというか、興奮が駆動となって、そのままその旅で数百食を食べぬく。ということにつながったのではないかと。西川さんは、読み取っています。

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西川さん自身、パリの特派員時代にある一つの発見がありました。

それは、フランス人はこちらがなげかける問題が面白ければ取材を受けるのだということ。

それは、相手が誰かということではないということです。

それ以来、西川さんは、インタビュー形式を変えて、2つしか質問を用意しないことにしたそうです。まず、最初の質問を相手になげかけて、それが返ってきたら「ああ、そうですか」と次の筆問にうつるのではなく、「おっしゃったことは、別の視点からみると違うのではないか」「日本では、そういう風にはみてませんよ」など、少し違う視点をなげかけると、こちらが想定しない内容が引き出せて、おもしろいインタビューになる。取材では、相手からそれなりの知識をもらうのだから、こちらもなにがしかの知的興奮をおこさせることが、相手に対する礼儀ではないか。そして、フランス人はまさにそういう人種であり、、辻静雄はおそらくフランス人とそういうやりとりをしていたのではないか。ポール・ボキューズ氏やさまざまな料理人との対等なやりとり、質疑応答の中から辻静雄なりのフランス料理を引き出していったのではないかと。

また、辻静雄が、これだけの著作を残せたのは、単に外来ものをそのまま輸入するようなことではなく、自分の中での咀嚼があったからこそ。そして、どんなに偉い先生の話でも、自分の中でストンと落ちなければ、納得しないというのが辻静雄であったように思うとも、話してくださいました。

ジャーナリストは、基本的に「第三の部外者の目」を持っているという西川さん。

どんなに知ったかぶりをして書いていても、ジャーナリストは、結局は部外者。辻静雄は、料理の世界に身を置いてはいましたが、必ずどこかに部外者の目を持っていた気がする。それは、その著作から感じるものであり、大局的にある距離をおいてみる。ある大枠から見る。単にノウハウだけではなく、相手を相対化してみるという姿勢を、常に、無意識にせよ、心のどこかに持っていた。教育者であり、創作者であった辻静雄の生涯には、常にジャーナリストとしてのセンスがあったと話します。

では、辻静雄は「フランス料理を築いた人々」で何を言いたかったのでしょう。

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西川さんは、それは、日本のフランス料理人への語りかけであり、自分の体験したこと、考えたことが、こうであったと、伝えたかったのではないか。そして、もう一つ掘り下げると、ビジネスとしての料理の必要性、不可欠さを伝えたかったのではないか。と言います。

「ただ、料理が作れるだけでは何の価値もないことを覚えておかねばならない。材料も時間も、人手もいくらかけてもかまわないというご主人がいて、その人の志向でその人のために作ることができた時代の料理、もう一方で、お金を懐にやってくるお客様に、それ相応の料理をつくり、材料費をおさえ、何かしかの金額を上乗せをしてお勘定をいただく商売人としての料理。現在の料理人は、前者のようなお客様を頭に描いて料理を作るのが最も幸せだと思い込む人たちが多いのに、あきれる。」と、

辻静雄は、ビジネスとして料理を考えない料理人は失格だとあきらかにいっています。

これを読んで、毎日新聞でファッションも担当する西川さんは、毎日ファッション大賞で、2009年、ファッション界にあって長らくその発展に寄与し、功績のあった人に贈られる鯨岡阿美子賞を受賞した尾原蓉子氏を思い出すそうです。

彼女は、「ファッション・ビジネス」という言葉と概念広めた人です。
尾原さんは、ビジネスを考えなければ、いくらクリエイションであってもダメなんだと。日本では、いい服をつくれば、自然とお客は買ってくれる。だからいいものをつくればいいという考えが根強くあった。しかし、いいものでも買ってもらえなければダメ、そのためには、ビジネスセンスをもたなければ、これからのデザイナーはダメだとした彼女の訴えは、「料理だけ作って、終わりではない。ビジネスとして料理を考えなければならない。」といった辻静雄と同じだと思う、そして、同じ時代に、この二人がいたということがおもしろいなと思ったそうです。

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西川さんは、2013年10月の終わりに、エリゼ宮の当時副料理長だった、ギヨーム・ゴメズ氏にインタービューをしました。彼は、11月からエリゼ宮の料理長になることが決まっていました。スペイン、アンダルシアからの移民で、中学の時から料理をつくり、高校から見習いをはじめ、兵役の代替制度を使い、エリゼ宮で働き、その後25歳で、最年少でMOFを受賞。ちなみに、ポール・ボキューズ氏は、60年代に当時最年少でMOFを34歳で受賞しています。

普通、元首の館の料理長はしゃべらないし、ほとんどとりつく島がないそうですが、彼はインターネットを使い、ツイッターをやり、日本にも知り合いのフランス料理人がいる。そして、これからの料理人はそういうことが必要だと言います。

彼の興味は、「これからの料理人は環境自然保護に取り組まなければいけないんだ」ということです。本当に健康な牛なのか、魚介は枯渇しそうなのではないか、そのためには世界中の料理人と連絡しあい、勉強していかなければならない。彼らの世代は、そうやっている。会ったことがなくても、世界中の料理人とコンタクトができる。その土地のことを常に知ることができる。元首の館の料理人もこうなったのかと非常に新鮮な思いをしたと、そのインタビューを振り返りました。

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そして、西川さんは、

辻静雄さんは60歳で亡くなられましたが、日本の一時代をかけぬけた。

まさに戦後の高度成長からバブル崩壊まで、日本の右肩上がりの時代の中でフランス料理とはなんぞや?という彼が咀嚼したものを提示し、それが日本のフランス料理のレベルをアップさせ、日本の食文化を成長させてきた。戦後の輝かしい時代に、辻静雄さんがいたことは幸いなことだったと思います。

しかし、もし彼が存命なら、おそらく環境自然保護について、料理人としてどう取り組んでいくか、大きく舵をきったのではないか。と思うのです。バブル崩壊とともに亡くなられてしまいましたが、辻静雄さんのあの感度、ジャーナリスティックな社会、時代を見る目。この20年間の低成長な時代に、フランス料理はどうあるべきか。辻静雄さんなりの答えを提示していたのではないか。あきらかに環境・自然保護、美食とはなんぞや、こういう時代の美食の意味、そういう深いところで物事を提示してくれたのではないか。また新しいところに目をつけて、新しい提示の仕方でわれわれにフランス料理というものをみせてくれたのではないか。そう思います。

そして最後に

やはり、辻静雄さんは、ジャーナリストであったと思う。

と、おっしゃいました。