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代表 辻芳樹 WEBマガジン

ヤニック・アレノ「Hotel Le Meurice」総料理長[第1回]

02 会う

2009.03.16

聞き手:柴田泉氏(月刊「専門料理」編集長)

久々のシェフズ・インタビューの登場です。今回のゲストはパリで最古の歴史を誇る最高級ホテルのレストランで三つ星を獲得し、これからのフランス料理界を牽引する若手リーダーの一人と注目されているHotel『Le Meurice』総料理長ヤニック・アレノ氏
インタビュアーは月刊「専門料理」編集長 柴田泉氏です。

■現在に至るまでの道程■

●まずは今にいたるアレノさんの軌跡を話していただけますでしょうか?料理人になろうと考えたのは何歳ぐらいですか?
  両親がカフェを経営していた環境のせいか8歳ぐらいには料理人になろうと思っていました。カフェの料理を作っていた母の影響もありましたが、料理人をしていた従兄弟の影響が強かったと思います。私も14歳ぐらいからいろいろ食べもの関係のバイトしていました。そのバイトでタマネギの皮を剥いたり、チーズに触れたりしたわけです。

他のカフェと同様に私の両親のカフェにもさまざまな人たちが毎日常連客としてやって来ました。そんな中の一人にガブリエル・ディスケーヌというM.O.F.の料理人がいまして、彼が私の父親に「君の息子が料理人になりたいのなら、夏休みの間、レストランに研修に入れたらいいんじゃないか」ってアドバイスをしてくれ、私は当時パリにあった二つ星のレストラン『ルレ・ルイXIII』で研修できることになったのです。
この研修は決して楽ではなかったですし、辛いこともありましたが、その後、私はより強く「料理人になりたい」という気持ちを持つことができました。それで、サン=クルーの調理師学校に入学し、その後パリで最高の料理学校であるフェランディ校に進学すべくテストを受けました。テスト結果はよかったのですが、サン=クルーの調理師学校時代の私はあまり素行がよくなかったので、その面で入学が許可されませんでした(笑)。

そこでそのまま調理師学校でB.E.Pを取得しました。その後、やはりディスケーヌさんのアドバイスに従って製菓を学ぶように言われ、頑張ってフェランディ校の製菓科に入ることができたのです。そして、'86年頃だったと思いますが、『ホテル ルテシア』(パリ6区)の厨房に製菓部のアプランティとして入ることができました。
このホテルで"Bocuse d'Or 1987"の準優勝者であるジャッキー・フレオン氏に出会うことができたのです。製菓部門のシェフはジャン=クロード・アラール氏でした。このホテルでのアプランティの後、製菓部門C.A.P.を取得した後、『ロイヤル・モンソー』(パリ8区)の厨房に料理人として職を得ました。2年ほどこのホテルで仕事をし、その後兵役に就きました。兵役中はアルザス地方の下士官宿舎付き厨房で1年間仕事に就きました。この1年間は私にとって楽しい時期でした。仲間と馬鹿なことも沢山しました。振り返ってみれば兵役の後は本格的に料理の世界にどっぷり入り込んでいきましたので、最後の「馬鹿騒ぎのできた」1年間だったかも知れません。

●当時から料理コンクールへは出場していたのですか?
  『ロイヤル・モンソー』で仕事をしている時に、既にコンクールには出場していました。少し話がそれますが、20歳の時にはある料理コンクールに参加するために日本に来ることができました。その時は3週間滞在したのですがほんとうにカルチャーショックを受けました。当時のパリではまだ日本食は今ほど一般的ではなかった時代ですから、日本に来て始めて白米やお寿司を口にしたわけです。例えばまったくキャマンベールを食べたことのない日本人が初めてこのチーズを食べたときのようなものです。でも、この始めての滞在で私は日本に夢中になってしまいました。

●兵役の後はどうされたのですか?
 兵役の後はホテル『ソフィテル』の厨房に入り、そこでやはりM.O.F.所持のシェフ、ロラン・デュラン氏に出会いました。このホテルでは宴会とかパーティ会場とかの担当で、とりわけ冷製の料理に関して多くのことを学ぶことができて、とても興味深い職場でした。シェフのロラン・デュラン氏は料理コンクールに長けたシェフでした。当時、パリでは『リッツ』と『ソフィテル』が多くの料理コンクールにおいてしのぎを削っていたのです。
 このような環境のせいで、私はさまざまな料理コンクールに参加することができたのです。『ソフィテル』の後、私は『ル・ムーリス』に移り、ソース部門のシェフを任されました。もちろんここでも様々な料理コンクールに挑戦し続け、それまでは毎回2位だったのですが、この時期に参加したコンクールで初めて優勝もしました。フランスの北部の海岸の町トゥケでのコンクール、そして、エスコフィエ料理コンクールでも優勝しました。
 結果、レストラン『ドルゥーアン』に当時のシェフのグロンダール氏に誘われて入りました。まずグロンダール氏はとにかく私に好きなように仕事をさせ、私の仕事振りをしっかりと観察しました。そして、約半年ほど経過した時「OK、じゃあ料理を作ろうか」って言ったのです。驚きました。それから5年間というもの彼に全てのフランス料理のベースを徹底的に教え込まれました。これ以前、私はけっこう自信もあったし、いっぱしの料理人だと思っていたんです。でも、実際はまだまだ学ぶことがいっぱいあったということに気づかされたわけです。
  で、あらゆるジュ、ソース・アメリケーヌ、アーティチョークの処理の仕方等々、すべてのベースを復習し、学びなおしたのです。グロンダール氏は例えばロビュション氏より知名度は低いかも知れませんが、そのスキルの正確さに関しては決してひけをとらない料理人です。

『ドルゥーアン』でのポジションは?
  スーシェフです。

●少し一気にスーシェフの時代まできてしまったので、もう少し時間を戻してみたいのですが、先ほどコンクールによく参加していらっしゃったと仰っていましたが、それはアレノさんがコンクールに挑戦することが好きだったのですか?周りの料理人の方々も皆そういう感じだったのですか?
  いいえ、皆が私のようではありませんでした。当時は今のような仕事の仕方では(*週35時間)ありませんでしたので、昼のサーヴィスと夜のサーヴィスの間にフリーな時間があったのです。当時の私はとにかく「もっと巧くなりたい」「もっと知識を得たい」という気持ちでいっぱいでしたので、そういった時間をコンクールのための技術磨きに費やしていたということです。

●とにかく学びたかったから自分の時間を割いて、というのはさすがだな、と思います。この間に何人か節目になるようなシェフに出会ってらっしゃるとおもうのですが、『ドルゥーアン』の前に出会われたギィ・ルゲさんは?
  『ル・ムーリス』のシェフです。私は"Bocuse d'Or 99"で準優勝を獲得した後、『スクリーブ』にシェフとして入りました。そして、その年に一つ星評価、2002年には二つ星を獲得しました。

●『ドゥルーアン』でスーシェフをされていた時に今までの経験をすべて覆すような状況になった、ということでしたけれど、この経験が『スクリーブ』でのシェフとしての仕事で花開いたという感じですか?
  確かにそうです。その頃のホテル内のレストランのターゲットは宿泊者だったのですが、今はホテルのレストランは外に向かって積極的に開かれていて、優秀なシェフを雇いいれるようになりました。ずっと以前は偉大なシェフたちがホテルのレストランを司っていた時代もありましたが、「さまざまな改革がしにくい」とか、「シェフたちをマネージするのがなかなか難しい」とかいうような理由で雇用しなくなっていたのです。でも、昨今はそれがまだ戻ってきています。
 私が二度目に『ル・ムーリス』にシェフとして戻ったのは2003年の9月です。で、2004年には二つ星を獲得しました。2005年には「三つ星に近い店」のカテゴリーに入りました。そして、2007年に三つ星を獲得しました。

Hotel Le Meurice
228, rue Rivoli
75001 Paris, FRANCE
+33.01.44.58.10.55

ヤニック・アレノ氏<シェフズ・インタビュー>第2回目は、3月23日更新予定です。
お楽しみに!