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代表 辻芳樹 WEBマガジン

「日本料理 伝統と革新~その多様性~」あすか会議で

講演・シンポジウム・イベント

2013.07.09

7月7日、グロービス経営大学院大学の「あすか会議」にてパネルディスカッションが行われました。
テーマは、「日本食文化の伝統と革新」
ファシリテーターは楠本修二郎さん(カフェ・カンパニー社長)。パネリストとして、大倉治彦さん(月桂冠社長)、徳岡邦夫さん(京都吉兆総料理長)と辻芳樹校長が登壇しました。聴講された50名ほどの皆さんはグロービスの在校生や卒業生。その熱心な聴講態度には驚きました。これから、日本のさまざまな分野で活躍される方々に、日本の食文化に対してこれほど熱心に興味を持っていただき、心強く感じました。

冒頭の約15分で、辻芳樹校長から「日本料理における伝統と革新」のおよそ千年の歴史を、アメリカの料理大学CIAでの講義のダイジェスト版として紹介。日本の食の多様性を地理・気候風土的側面と歴史的・文化受容史的側面から説明しました。

以下のその講演内容をここに再録します。


<辻芳樹校長:基調講演「日本料理 伝統と革新」>

asuka_7594.jpg日本料理の特質を、<伝統と革新>、そしてそこから生まれた多様性という切り口で見てみましょう。<伝統と革新>とは、外部から影響を受けて、そこに日本的な工夫を加え、進化させて、革新的なものを生み出し、そして日本的な<伝統>に仕上げる。食文化においても、この伝統と革新のサイクルが文化的なエンジンとなって、「多様性」という豊かさを持つに至った、というのが私は基本的な考えです。

そのことを、地理的側面と歴史的側面からお話します。

まず日本列島の地理的特異性。一般的に島国ということですが、周囲100km以上の島をカウントすると、6852の大小の島々があります。また、北の亜寒帯から温帯、南の亜熱帯まで、気候条件的にはバラエティに富んでおり、狭い国土の特徴として、山と海が近接し、川が毛細血管のように日本中を流れている。歴史的にみると、山の豊かな栄養が海に注ぎ、世界でも有数の漁場を近海に作り上げてきました。ここから、多種多様な沿岸漁業、海草類などの採集、栽培・加工技術も発展してきました。

もうひとつの側面。日本の食文化の歴史的な側面からの話に移ります。
日本の食文化は、列島独自の気候条件、風土に加え、大陸から、つまり中国をはじめとして、さまざまな地域からの影響を受け、日本的に変容、変化させて来た歴史と言えます。すなわち、縄文後期から始まる稲作を含め、食、農業にかかわるほとんどの分野の起源は「外部」からもたらされ、それを日本の風土と文化に合わせながら、まったく新しい価値を創造する。それが、日本の食文化の本質的なスタイルであり、アイデンティティと言えると思います。


asuka_7636.jpg大陸から、そして遠く西欧から「外部」の文化を大量に受け入れてきた日本が例外的に国を閉じ、自分たちの独自の文化を深めた江戸時代。全国の物流網が陸上、海上で整備されたことは、独自の食文化の発達に大いに貢献したと言えるでしょう。
そして、さまざまな料理本の出版ブームが起こり、江戸で評判の料理屋を、相撲の番付表に見立てて、西と東の大関やら小結と格付けしたものまで現れます。そこで生まれた「江戸のファストフード」とも呼べる、鮨、天ぷら、うなぎ、蕎麦などは、現代においても、国際的に通用する日本料理の代表選手になっています。
また、食に限らず江戸時代に生まれて流行したもの、歌舞伎、相撲、着物なども「和風」の文化的定番となっています。

明治維新に突入し、肉食の解禁や、西洋料理の影響をうけた「新しい料理」が次々に生まれてきますが、その近代化の荒波に対応できるだけのポテンシャルが、実は江戸時代にはすでに用意されていたということを記憶しておいて下さい。

最後に海外でも必ず話題になる「Kaiseki」についてお話をします。

料理における「Kaiseki」とは何か。これに答えるのはそう簡単ではありません。
「カイセキ料理」の誕生には、多くの研究者が指摘していることですが、二つの大きなファクターが関与しています。そのひとつが、中国仏教の禅宗からもたらされた「精進料理」。この「精進料理」こそ、日本における料理技術の発展に非常に貢献した料理体系です。ふたつのめファクターは、「茶」。茶の文化です。「茶の文化」も中国からもたらされ、日本独自に進化、発展をとげた。すなわち「茶の湯」の文化が、お茶を楽しむための食事として「カイセキ料理」を生みました。

精進料理は、鎌倉時代、中国に留学した禅僧たちが持ち帰ったのですが、肉食厳禁の宗教的戒律から生まれた料理が、制約の中で逆説的に、工夫に工夫をかさねて、ある種の「美味しさ」「らしさ」を追求する料理になった。その結果、料理技術が発達、洗練されたのです。
いっぽう、日本のお茶の文化はとてつもない「飲食文化」を構築しました。お茶は、栽培、製法も日本独自の洗練、進化をたどり、「茶の湯」の文化は、日本的な建築、庭、花、美術品、陶芸品などを含めた総合芸術となります。そして、公家や有力な大名、武家、さらに裕福な豪商たちがパトロンとなって、日本独自のサロン文化へと発展していきます。
この洗練された「茶の湯」の美学に拮抗する「料理における美学」と、精進料理の系譜を継ぐ料理の先端テクノロジーが出会って磨き上げられたのが「Kaiseki」料理と言えるのではないでしょうか。

さて、以上のことをまとめるとこうなります。

「日本料理」は、室町時代、15世紀から16世紀にかけて、ある程度まで完成し、最終的に日本固有の食文化と呼べる段階に来たのが江戸期でした。明治維新以降になると、西洋料理が日本料理に新たな局面をもたらします。しかも、西洋料理そのものに日本料理が吸収されるのではなく、逆に日本風の料理体系のなかに呑み込む形で、独自の「西洋」を実現する。すなわち、「洋食」というジャンルを作り上げます。これは、中国料理の日本的な変形としての「ラーメン」などにも当てはまるパターンです。

日本の文化は、圧倒的に海外の影響にさらされ、順応するようなふりをしながら、結局、日本独自のものを残し、守るというスタイルをこの21世紀になっても変わらず持っていると私には見えます。

ただし、課題があるとしたら、そういう日本の文化スタイルを今度はどうやって外部に、海外に「発信」するか、伝達、教育するか。このあたりを今後は解決する必要があると思います。

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