| 九月九日は「重陽」という節句である。重陽とは、陽数(奇数)の中で一番大きな数字である九が重なる日という意味で、不老長寿と収穫を祝う式日である。正月七日、三月三日、五月五日、七月七日とともに五節句といわれ、その昔、これらの中で最も重要な節句とされてきたが、明治以後はこの日を祝う風習もすたれていった。 |
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| かつて宮中では重陽の日に「重陽の宴」と称する観菊の宴が催され、杯に菊花を浮かべた酒を酌み交わし、長寿を祝い、臣下に詩歌を作らせたといわれている。 |
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| 元々は、『太平記』に載っていた中国の伝説「菊慈童(きくじどう)」からもたらされた長寿を祈る行事である。『太平記』といえば日本の南北朝時代を記した軍記物語であるが、その中で後醍醐天皇のもとへ、駿馬が献上され、天皇が当時の内閣総理大臣にあたる太政大臣に吉凶をたずねると、「吉である。何故ならば・・・」と彼が語り出したのが、こんな話である。 |
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その昔、中国の周の帝が、8頭の名馬を使って世界中を駆け巡っていた。あるとき西方の中天竺に行くとお釈迦様が法華経を説いておられるところに出会い、お釈迦様から国を治めるための八句の偈(げ)を授かることができた。(*注:偈とは、経・論などの中に、仏教の真理が韻文や詩の形で述べられたものを指す。)
ある日、この周の帝から寵愛を受けていた「慈童」という少年が、誤って帝の枕をまたいでしまった。当時は、帝の枕をまたぐというのは大変な大罪であったため、怪物が住むという深山の奥に追われることになる。不憫に思った帝が、お釈迦様から授かった法華経の偈の一部を、慈童にそっと伝授し、毎日唱えるようにいった。慈童は帝の教えを守り、偈を忘れないように菊の葉に書き、毎日欠かさず朝夕に唱えた。この菊の葉からしたたった露の雫が谷川にわずかずつ落ちて、やがて谷川の水が全て霊薬「菊の酒」になったのである。慈童がのどの渇きをおぼえて谷川の水を飲むと大変甘く美味で、怪物もこの谷川の水を飲むことで、気持ちが穏やかになっておとなしくなった。
時代が移り、魏の帝が、ある深山の麓から霊水が涌き出ているという噂を聞きつけ、使者を向かわせたところ一人の少年が現れた。彼は周の帝に仕え、帝から寵愛を受けていた「慈童」だという。さらに、少年の姿のままで700年(一説には800年)も生きていたのである。また、この谷川の下流に住む三百軒余りの人々もその恩恵にあずかり、皆病気が治り、不老不死の長寿を保っていた。慈童は「彭祖(ほうそ)」と名を変えて魏の帝に召し出され、この偈を魏の帝にお授けした。 |
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と、このような話で、能楽でも室町時代に原曲が成立し、江戸時代までの間に改作曲が繰り返され、同じ内容で「菊慈童」、「枕慈童」、「彭祖」と題名が変わったりしながら観世流、金剛流など各流派で伝わっている。
重陽の節句に行なわれた慣習としては、「菊慈童」の物語を受けて、旧暦九月八日の夜、菊の花に真綿をかぶせて霜よけとし、また、その香りと露とを移して、九日の重陽にその綿で身を拭うと、老いを取り去り、命が延びるとされた。 |
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菊の花は皇室の紋章に使用され、日本の国花ともされていて、生活のすみずみまで行き渡っている花である。春の桜とともに、家族で菊の花を愛でに出かけるということも行なわれていた。私が幼少の頃は、春には実家の近くの城址に桜の花見に出かけ、秋は遊園地で開かれる大菊人形展を見に行くというのが、我が家の年中行事で、「今年の菊人形のテーマは何になるのだろうか?」というのが家族の食卓の話題によく上っていた。かつては歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』などを一場面ごとに菊人形で表したり、最近ではNHKの大河ドラマをテーマにしたものがあったりと、菊人形は見世物的な要素と芝居見物、縁日などの要素も含み、人々の心を捕えていったのであろう。
菊人形は、菊の花そのものの美しさよりも、その菊の花をいかに組み合わせて、花が咲き誇った時にきちんとした人形の衣装になって完成するように作られているかが問われるもので、これを緻密な計算をして作るのが、菊師の職人の技術といわれている。明治時代には、この菊人形が大変もてはやされ、二葉亭四迷の『浮雲』、夏目漱石の『三四郎』、森鴎外の『青年』などの小説にも描かれた。 |
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外国ではサラダにエディブルフラワーを使ったり、バラのジャムを作るなど花を食べるという習慣がある。一方、日本では花はほとんど食べられないが、菊だけは例外で、今回の料理のようにお浸しなどにして、昔から食べられていたようである。お造りのあしらいによく使われる黄色い「坂本菊」や、お浸しによく使われる淡い紫の「もってのほか」という印象的な名前の食用菊もある。 |
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